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『PLASTIC CITY』 ユー・リクウァイ監督インタビュー オダギリジョーも困惑“バベル”な撮影現場

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080912-00000011-vari-ent

9月12日22時5分配信VARIETY拡大写真ユー・リクウァイ監督ヴェネチア国際映画祭の公式会見では、「中国で得た経験を国外に伝えなければならない焦燥に駆られている」と発言した『PLASTIC CITY』のユー・リクウァイ監督。個別インタビューでは、国外で製作する意味について一歩踏み込んで答えてくれた。『PLASTIC CITY』の写真はこちら「中国では、自国をロシアやインド、そしてもちろん(映画の舞台である)ブラジルのような大国家であり、新興国であると思っている。僕はこの考えを国外に持ち出したかった。なぜなら、そうすることで客観的に見た中国への見解となりえるわけだからね。そして、この可能性を実現できるのはどこかと考えたとき、ブラジルが浮かんだんだ。貧困や贈収賄など、社会的な面から考えても、僕たちは多くの共通したもの抱えているしね。また、この遠い異国の地に私の体験を組み込むことで、何が起こるか興味が湧いたってこともある」中国と似た環境下にあるブラジルを舞台にしつつも、日系移民を中心に据えた本作。その意図とは。「ブラジルは、たくさんの動物たちや神秘的な景色、そして不思議な人種の集まりなど、ユートピアの代名詞だ。そして、サンパウロという大都市がある。そこでは、約100年間にわたって移民を繰り返してきた日本人たちのような、とても絆(きずな)の強い古くからのコミュニティがある。最初に日本移民について勉強したとき、なんて強い同族意識なんだろうって思ったよ。なんてたって100年前だよ。 信じられない。僕には移民の背景にある彼らの心理状態が想像できた。どうやって日本人がブラジルに、ジャングルに、この狂った土地に分け入ってきたか。つまり、これがこの映画のコンセプトなんだよ」1970年代の中国映画、鈴木清順が僕の先生本作における“ギャング”の役割を「ジャンルではなく、あくまでも物語の案内人にすぎない」と位置づけるリクウァイ監督だが、実際、ギャングたちは紛れもない主役である。「観客との距離を縮めたかったから、意図的に印象の強い案内人を選んだんだよ。少なくとも案内人だけは強いよね。だって、われわれは観客を席にとどめて、感動で引きとめるようなことはできないから。私は革命を起こせるとは思えない。でも、力強い映画で小さな革新ならできるよ。だって、これこそがアジア映画の昔からの役割だからね」2006年のヴェネチア国際映画祭の金獅子賞グランプリを受賞した『長江哀歌』のジャ・ジャンクー監督の撮影監督として、既に長い映画キャリアを持つユー・リクウァイ。映画への思いも並大抵ではない。「1970年代の中国映画は僕の偉大な先生。鈴木清順監督も大好きだよ。間違いなく偉大な巨匠たちのひとりだね。暴力の表現に優れていて、非常に心理的に暴力を描く。彼からは多くのことを学んだよ。常にクリエイティブで、毎回、観客に何か新しいことを体験させる革新的精神のような感じかな。でも今では、その精神が失われてきている。もちろん、日本には新しいことに挑戦しているたくさんの素晴らしい監督がいるよ。でもちょっと物足りない。現在、僕はハリウッドと同じレベルを目指して、どんどん規模を大きくしている中国のプロダクションに入っている。でも彼らは保守的なんだ。なぜ何か新しいことに挑戦しないのだろう。ちょっとした新しいことでもいいんだ。たぶん、これは会社の規模を大きくすることよりも大事なことなんだと思うよ」オダギリは自発的でフィジカルなカリスマオダギリジョー主演作ということでも話題を集めた本作。監督は脚本執筆時から既に彼を想定していたという。「最初に見た映画は確か、ビートたけしと一緒に出演していた『血と骨』だったよ。映画館で一番最初に彼を見たのもこの映画だ。彼はほかの日本人俳優と全く違う、非常に自発的でフィジカルだ。中国や日本だけでない、アジア全域で考えても彼は何か特別なものを持っている俳優だし、僕はそう信じている。だからこそ、韓国のキム・ギドク監督も最新作で彼を選んだんだ、偶然じゃないんだよ。思うに彼にはカリスマ性があるんだね。撮影は彼にとっても私にとって大変だったよ。中国語とポルトガル語を操ることは、彼にとっては非常にチャレンジだったと思うよ。だって、アドリブできないからね。すべてのセリフを暗記しなければならなかったんだ。撮影日数も42日間と短く、かなりタフだったよ」撮影現場では、英語、広東語、日本語、ポルトガル語が飛び交い、意思の疎通に非常に苦労したという。なかでもオダギリジョーとの面白いエピソードを紹介してくれた。「実は現場では5人もの通訳がいたんだ。私たちは4つの言語で話していたからね。だからときどきね、なんていうんだろ、急がなきゃいけないときに、私はアンソニー・ウォンに広東語で説明するわけだ。で、『アクション』て声をかけて撮影を始める。するとオダギリが『俺はどうなの。 監督の言っていたこと理解できてないよ』って言うわけだ(笑)。つまり完全に『バベル』状態ってわけ」あらゆる対立構造による痛みが、映画を作る脅迫観念だ本作ではアンソニー・ウォン演じる父と、オダギリジョー演じる子どもとの親子の絆(きずな)が中心に描かれている。監督によれば、父子の間にある対立意識は、より広義の意味でとらえられることができるという。「この映画で一番重要なのは、父と子の関係性だ。父親はとても唯物的な人物でビジネスに貪欲だ。対して、子どもはある種、夢見がちで、父親のせいかビジネスには興味がないんだ。私のような人は、アメリカやヨーロッパのような裕福な国に従ってしまうだろう。そして段々と唯物的になり、追い続ける限りほかに選択の余地がなくなってしまう。でも、多分、ほかにも選択肢がある。私の最後の希望は、このもう1つの選択肢であり、これこそこの映画で伝えたいものだ」もう1つの選択肢を探し続ける戦い、それは映画製作にも通じるという監督。作品を撮り続ける原動力とはいったい何か。「私たちは皆、どんな形であれ反抗的な立場にいるわけだ。つまり、常に自分自身や人間としての境遇に対し、形而上学的な意味で戦い続けているんだよ。この痛みが僕を成長させる。つまり、何が究極の現実的な精神なのかという問いかけが、僕にとって映画を作る強迫観念となっているわけ。映画を撮るってことは鏡の中の自分をみて、答えを見つけるようなものだからね」本作の評判次第では、共同製作会社と手を組み英語映画に取り組みたいと打ち明けたリクウァイ監督。その裏側には彼の真意が隠れていた。「いまのところ、僕は中国で映画を作りたくない。なぜなら、国外で何かできる方が、結果的に産業全体を盛り上げることができるからね。まずは、我々があらゆることを国外でできるって証明することだ。いずれにせよ、中国には、やまほど映画を作っている人がいるからね」■

[引用元Yahoo[エンタメ総合(VARIETY)]]

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